大日如来尊
大日如来尊

当山の本尊は大日如来である。両手を胸の前にあげ、左手の人差し指を右の拳で握っている印相”智拳印″を結ぶ金剛界の大日如来で、悩み・助けを求める人があれば、いろいろな諸仏・諸菩薩に身を変じ、直ちに救いの手を差しのべて下さる仏さまである。真言密教の教主にふさわしく、堂々とした風格、そして智慧(ちえ)の境地を示す深遠な表情は、昔から多くの人に信仰されてきた。(製作年代 江戸時代前期)

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泥足毘沙門天尊
泥足毘沙門天尊

上杉謙信公の居城である越後春日山本丸北側にあった毘沙門堂のご本尊で、謙信公が最も崇拝された御守本尊であった。特に出陣にあたっては、数日篭って読経し祈り続けたといわれ、ある時、夜を徹して祈願をこめて朝になると、護摩壇(ごまだん)の上から外に向って点々と毘沙門天の足跡が残っていたことから、謙信公の戦陣にまで出向かれて加勢されたということで、上杉家では特に「泥足毘沙門天」と尊称して、善光寺如来尊とともに米沢城内本丸に造営された御堂に、謙信公のご尊骸を中央にして左右に祀り、歴代藩主によって深く尊崇された。明治九年当寺に移され奉安された。
出陣の際、謙信公が主だった武将を毘沙門堂に招集して"正義の戦い"であるとの誓いをこめて戦勝を祈願した「武てい式」はあまりに有名である。又、上杉の軍旗「毘」の字はこの毘沙門天信仰によるものである。
(製作年代 鎌倉時代)

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善光寺如来尊
善光寺如来尊

善光寺如来尊は、インドより百済を経て五五二年仏教伝来と共に欽明天皇に献じられた我国最古の仏像とされる三国伝来の秘仏である。蘇我稲目に賜ったが物部尾興等の奏請により難波堀江に棄てられた後、推古天皇十(602)年に信濃国人若麻績東人(後に本田善光と云う)がこれを奉載して祀ったのが、信濃善光寺如来尊である。
天文二十(1551)年、川中島の戦いの折、信州中野城主高梨政頼は戦国の兵火を避けるため、信濃善光寺のご本尊を上杉謙信公に奉じた。謙信公は春日山に如来堂を建ててご本尊を懇ろに奉祀するとともに深く尊信し、厳重に守護した。
慶長六(1601)年、上杉家の国替えに伴い、善光寺如来尊も米沢に移され、景勝公は米沢城本丸の東南隅に藩祖謙信公を祀る御堂を建て、御堂本殿の中央に謙信公のご尊骸を、右に善光寺如来尊、左に泥足毘沙門天尊を安置し、さらに、二ノ丸に御堂に勤仕する真言宗二十一ヶ寺を建立して、守護の掟頗る厳重にして、その供養勤行は丁寧を極め代々奉祀された。
明治に入り、法音寺が歴代藩主御廟所のある現在地に移転し、明治九年本丸の御堂が解体されて謙信公のご遺骸が歴代御廟所中央の現在地に遷座された際、善光寺如来尊、泥足毘沙門天尊は当寺に移され奉安された。
毎年、5月15日に御開帳法楽祈願祭を厳修して、世界平和、万民息災と諸願成就を祈願する。

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善光寺如来尊付属宝物
善光寺如来尊付属宝物

信濃善光寺から御本尊と共に伝来した宝物で、いずれも鎌倉期の作で優れた金工品である。金銅五鈷鈴(二箇)、金銅五鈷杵、金銅舎利塔は、県指定有形文化財に指定されている。

【写真左上:金銅五鈷鈴(二箇)、右上:金銅舎利塔、中央:金銅五鈷杵、左下:如来尊宝印、右下:金銅宝珠塔】

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菅谷不動尊
菅谷不動尊

新潟県北蒲原郡菅国の明王護国寺は、建久年間、護念上人により創建された真言宗の寺である。この寺のご本尊である不動明王は、霊験あらたか、特に眼病治癒の明王"菅谷不動尊"として多くの参詣者で賑わう霊場である。
建久五(1253)年、寺が雷火で消失したとき、不動尊に池のたにしが付着して類焼を免れたという伝承がある。
上杉謙信公は諸仏に対する敬信極めて篤く、菅谷不動尊にも深く帰依されていたので、景勝公は国替えの際これを奉持して米沢に移し、本丸の御堂に祀っていたが、明治九年当寺に移され、上杉家御霊所北側のこの場所に奉安された。
(製作年代 鎌倉時代)

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藩主のお位牌を祀る上杉家御霊所
善光寺如来尊

本堂の一番奥まった棟に謙信公をはじめ歴代藩主の位牌を祀る。金箔をめぐらした五輪の塔に法名が刻まれ、朱塗りの厨子に納められた荘厳なもので、各代々ほぼ同じ造りとなっている。
しかし、謙信公・景勝公の位牌は一段と古く、形も違っていて、まだまだ動乱の真唯中で決まった造りにはなっていなく、藩体制がようやく落ち着いてくる定勝公から一定の造りのものに整えられていったことがわかる。さらに、藩政の改革を行っていた治憲公(鷹山公)は、藩主の葬儀も質素の旨を以て執行され、御父君である重定公より後の藩主の位牌は、小さく造りも質素となっていて、公の改革の決意の程が伺える。
代々の藩主によりその時代の違いも汲み取れる。歴代藩主の位牌を拝む時、それぞれ先君の遺徳が偲ばれる。

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刀八毘沙門天掛幅画
刀八毘沙門天掛幅画

謙信公は、軍旗に「毘」「龍」を用い、さらに「刀八毘沙門天」を掲げた。「刀八」とは中国西域の「菟跋国」に王城鎮護の神として信仰されていて、日本にその思想が伝わり「菟跋」が「刀八」という文字に変更され刀を八本持つ毘沙門天という、よりわかりやすい具体的な形となり祀られるようになった。
この仏画は、上杉家の守本尊の一つとして、謙信公御堂か二の丸寺院に掲げられていたものであろう。
(製作年代 江戸時代前期)

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両界曼荼羅図
両界曼荼羅図

胎蔵界曼荼羅、金剛界曼荼羅の二種で両界曼荼羅という。「マンダラ」とは、サンスクリット語で、本質、精髄、輪円具足の意味であり、真言密教で説く大日如来の悟りの境地を図画したものである。
真言宗では、最も尊ぶ礼拝対象物の一つとして、本尊の両側に掛ける。又、重要な法要には、その会場に掛けてこれを用いる。
謙信公が天正二年(1574)、四十五歳の時に、高野山無量光院の清胤法印を越後に迎え、伝法灌頂を勧修し、この時より、剃髪法体となり、法印大和尚に任ぜられる。この時にも、これを使用され掲げられたと思われる。
(製作年代 室町時代)

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蔵王権現像
蔵王権現像

蔵王権現は修験道の本尊で、役行者が金峰山中で修行中に感得したと伝えられる日本独特の仏像である。平安時代以降、修験道が全国で盛んになり、法音寺が創建された越後の八海山は修験の山としても有名である。
(製作年代 鎌倉時代)

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大涅槃図
大涅槃図

縦302cm、横212cmと大きな涅槃図である。
藩主の御用絵師として有名な目賀多秀東が描いたとの記名がある。

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不識公御画像
不識公御画像

裏書があり、景勝公が高野山無量光院に奉納されたものの写しであることがわかる。
謙信公の肖像画代表的なものとして知られているのがこれである。

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法華経
法華経

法華経とは、大乗仏教の代表的な経典で、正法華経、妙法蓮華経、添品妙法蓮華経からなる。一般的には、妙法蓮華経が盛んに読誦される。
法華経・八巻は「法華八講」といって、八巻を朝座、夕座に一巻ずつ、四日間に八人の講師により読誦・供養する法会である。
この法華経は、一巻から八巻まで四巻ずつ二段で一つの箱に納められ、二箱となり、全巻に"毘沙門堂"の文字が見られる。謙信公が崇拝された毘沙門天尊が奉安されていた春日山の毘沙門堂にあったもので、謙信公が出陣前に毘沙門堂に籠もられ、戦勝祈願と安寧を願い法華経を唱えられたことは有名である。

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